私的感想:本/映画

映画や本の感想の個人的備忘録。ネタばれあり。

『家庭の医学』 レベッカ・ブラウン

2009-05-31 08:49:09 | NF・エッセイ・詩歌等

レベッカ・ブラウンが癌に冒された母親の入院、手術、治療、そして看取るまでを描く。「母のどこかほかの部分は、何か別のものによって助けられていたと思いたい。何か優しいものによって母が助けられていたと私は信じたい」―。
介護という現代の問題をテーマにした「介護文学の先駆的な一冊」。
柴田元幸 訳
出版社:朝日新聞社(朝日文庫)


「Panasonic Melodious Library」 という番組を、たまにだが聞く。小川洋子が毎週一冊ずつ本を紹介する番組だ。

小川洋子のしゃべりはさほどこなれていないのだが、その本のどこがすばらしいかを語るとき、声のトーンが微妙に変わり、いきいきと滑らかになる。そのトーンの変化を聞いているだけで、その本が本当にいい作品なのだな、というのが伝わってくるのが印象的だ。
そして肝心の本の解説も、さすが作家だけあり、いちいち的確。
僕も知っている本を紹介する回のときは、ときに共感を、ときにそんな視点もあったのか、という驚きを与えてくれるし、知らない本の回では、それが本当にすばらしい本であることを、説得力をもって語ってくれる。

「家庭の医学」は、その番組で取り上げられていた一冊である。
内容は癌に冒された母親を看取る娘の物語で、2時間もあれば、読破できる短い作品だ。


基本的に僕は、安着に人が死ぬ話は好きじゃない(ミステリを除く)。
人が死ねば当然悲しいに決まっているわけで、そんな話をいかにも悲しげに書くことに、どんな意味があるんだ、と思ってしまうからだ。

しかしこの本には悲しみを煽るような、押し付けがましい文章はない。
小川洋子も言っていたが、この本の文章はきわめて抑制され、淡々と描かれている。
しかし淡々とした距離を置いた文体のために、母の病気がいかに絶望的かがよく伝わってくるのだ。

実際、母親は癌が見つかり、その最後を看取るまでのプロセスは、恐ろしく重たいものばかりだ。
これが癌の現場でよくあるプロセスだとしたら、看取る側は相当な覚悟が必要だろう。そう強く感じさせるものがある。


しかし「私」がその重たい事実にぶつかり、具体的にどう悲しみ、どんな衝撃を受けたかは多く語られない。
母親の苛酷な(本当に苛酷だ)状況だけは精緻に語られるのに、語り手は自分の具体的な悲しみを語ることを避けている。あくまで文体は淡々としていて、母の病状をつづるときと同じように、「私」の感情に対して、距離を置こうとする。
しかし、感情が細やかに語られずとも、「私」の悲しみやつらさやショックは、読み手にもはっきりとわかるのだ。
それだけに、あくまで淡々と語る「私」の姿勢が、読んでいてもつらく、胸に迫るものがある。

個人的には、【転移】のラストシーンや、【嘔吐】の章の綿棒で水をあげるシーン、【水治療法】のバスタブで母の体を洗うシーン、【睡眠恐怖症】で眠りに怯える母を慰めるシーン、【幻視】でのラストなどが、読んでいても切なく感じられた。
少しずつ目の前の母から、自分の知っている人格が失われていく様も、読んでいて苦しい。
死の覚悟はすでにできているのに、子供たちにその覚悟ができるまで待っている母の姿も、読んでいて悲しい。


そして僕がもっとも悲しいと思った場面は、小川洋子も触れていた、【幻覚】の章だ。

その章のころになると、「私」の母親は、脳の機能が衰え、認知症めいた症状が現われている。
そのとき母は、幼い子供とどこかへ出かけるときのように、「支度できた?」と、頻繁に娘たちに尋ねるようになっている。娘である「私」たちは、それに対して「大丈夫だよ」と答える。荷物も、私たちの支度もできたからと、「私」たちは答えて、母親の相手をする。

そして「私」は、母に「大丈夫だよ。支度できたよ」と答えながら、もう「私」たち、子供たちのことをそれ以上心配しなくていいよ、という意味合いも込めて、「大丈夫だよ」と言うようになる。

小川洋子いわく、母親は心配するのが仕事らしい。
だからこそ、「私」は、「私」たちのことをもう心配しなくてもいい。安心して旅立ってもいいんだよ、という意味合いも込めてそのような言葉を、母に向けて口にするのだ。
親には親の思いがあるように、子には子の思いがある。そう思うとあまりに切ない。

そして本当に切ないのは、「私」たちが「支度できたよ」と言いながら、母が亡くなることに対して、これっぽちも「支度なんかできていなかった」ことにあるだろう。
どれだけ覚悟ができても、現実の肉親の死は、頭で考えるよりもはるかに重い。
その事実に、読んでいて感情がゆさぶられた。


この本を読みながら、いろいろな点で、自分と重ね合わせずにはいられなかった。
すべての情景はあまりにリアルで、心情に深く訴える力に満ち溢れている。
無駄に長い文章になったが、それだけ何かを語りたくなる一冊ということだ。

本書は本当にすばらしい作品である。
確信を込めて、僕はそう断言をしたい。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)

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